29.ミッドライフクライシス

昨年は一度も投稿できませんでした。
公開していない日記的なものは書いていましたが、まとまりのない文章でとても公開できるものではありませんでした。
一年以上空いてしまいましたが、 久しぶりに書いてみたいと思います。

ここ半年くらいは仕事が落ち着いており、考える時間が多くありました。 考えていたことは主に「人間関係(コミュ力)の不安」と「この先の漠然な不安と虚しさ」です。 前者はこのブログで散々書いてきたことですが克服できていません。 克服が難しいので情けないですが逃げる道を模索しています。

後者の「この先の漠然な不安と虚しさ」は言語化が難しい漠然とした不安なのですが、このエントリで言語化してみたいと思います。 ミッドライフクライシスなる言葉を調べたところ今はこれに近い状態という気もしていますが、少し違うような気もしています。

少し振り返って考えてみたいと思います。 数年前にプロジェクトリーダーとしてプロジェクトを担っていたことがあったのですが、難しいプロジェクトで精神的に限界を感じてリタイアした苦い経験がありました。 (主に人間関係の部分で)難しかった部分があったとはいえ自分の実力不足を痛感して悔しさを感じておりました。 だから力をつけて再びプロジェクトリーダーとしてプロジェクトを推進して成功に導くことで過去の悔しさにリベンジしたいと思っていました。 ここ数年は「プロジェクトを最後までやり切って成功に導く」ことを仕事での大きな目標として日々取り組んできていました。

一昨年から管理職となりプロジェクトを推進する立場となりました。 4つほどのプロジェクトを(大成功とはいえないですが)及第点の成果は上げられたので「プロジェクトを最後までやり切って成功に導く」ことはできたと思っています。 しかし自分の仕事の意義に疑問を持つようになったこともあり、達成感や充実感はそれほど得られませんでした。 ある種の虚しさを感じておりました。 この虚しさはなぜだろうかを考えてみたいと思います。

以前にも書いたのですが、2年前くらいから脱資本的な考えを持つようになり経済的な成長に意義を見出せないようになっていました。

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私の担ったプロジェクトは顧客企業の営利に寄与するものでしたが、顧客企業の営利とは大量生産大量消費を助長するものでした。 成果は上げられたのですが、その成果によって環境を汚しているというジレンマに陥っていました。 「プロジェクトを最後までやり切って成功に導く」とは過去の情けない自分の悔しさを晴らしたいという極めて個人的な思いだったので、その先の社会への好影響という部分は二の次になっていました。 自分の所属する会社も営利企業なので、その会社には寄与したとは思いますが会社の存在自体にもそこまで意義を感じていません。 存在しなくても困らないとさえ思います。 こんなことを言ってはほぼ大半の会社は当てはまると思うので、青臭いことを言っているとは思いますが、そういうことばかりを考えていました。

だから意義のある仕事をできる会社に転職や独立という道を模索していますが、そんな簡単な道ではありません。 自分のような逃げてばかりの甘い人間には険しい道だと思います。

  • 険しい道を選んでその先に得られる何か(達成感?充実感?)を求めるか
  • 楽な道を選んで自分を傷付けないように虚しさと共に生きるか

こんな極端な2択ではないですが、ここ1年は散々考え悩み迷い続けたので、どちらかの方向に舵を切る選択をしなければいけないと強く思っています。

人生100年時代と言われていますが、この先の日本は少子高齢化に拍車がかかり良い未来を想像できません。 この先何を目標に生きればよいかもわかりません。

やはり「使命感」を持たなければいけないのかもしれません。 仕事で大きな仕事をして社会に貢献したいという思いはあります。 それを達成するためには多くの困難を乗り越えなければいけないです。 その多くの困難の中には人間関係の困難も含まれていると考えていますが、人間関係の困難を乗り越える自信を持てない状態に陥っています。 まったく情けないです。 人間関係はどこにいても発生するので、乗り越えなければいけないのですが、自分の人間関係構築能力の低さに絶望を覚えています。 人間関係構築能力の低さはコミュ力の低さが起因しています。 おそらく自意識過剰で被害妄想だと思います。 それでもその被害妄想から逃れられません。 認知の歪みというやつかもしれません。 ここ1,2年くらい深く考えてよく理解できたことは感情をコントロールするのは極めて難しいということです。 世の中には悩んでも仕方がないことは多々あるので、「すべては気の持ちよう」なのですが、そんな簡単に気の持ち方を変えられません。 これは多くの人に当てはまると思います。 感情のコントロールを妨げているのは自尊心だと思います。

相手より優位に立ちたいマウンティング心理。 見下されないことを極度に恐れる歪んだプライド。 相手に認められたい承認欲求。

この辺りのキーワードは昨今よく聞きます。 自分だけの悩みではないのでしょう。 自尊心を捨てられたらどんなに楽なことでしょうか。 それはもう悟りの境地なのかもしれません。 怠惰で俗物で小物の自分にはその境地には到達できる想像すらできません。

考えられる回避方法は人間関係が発生しない環境に身を置くことです。 無理は承知ですが田舎で自給自足を悠々自適に過ごすことに憧れを抱きます。 ただその生活を手に入れられたとしても不安からは逃れられない気がします。 「社会から取り残された不安」に怯えることになることは容易に想像できます。 人は徹底的に社会的な動物と言われていますので、やはり人間関係を構築する力を付けなければいけないのでしょう。

考えすぎが良くないのでしょう。 純粋に目の前の物理的な事象に向き合うことも大切だと思います。

28.管理職になって

私は今年、管理職になりました。
管理職に就く前からもリーダー的な立ち位置で仕事をしていました。
そういったことが評価されてか上司より管理職の打診を受けました。
コミュ力の低い自分には管理職の適正はないとは思っていますが、経験年数や年齢的にも自分がやらないといけないという自覚はあったので、引き受けました。

しかし悪戦苦闘しています。
一部の部下からも反発する動きもあり、信頼関係を築けているとは言えません。
上司との折り合いも良いとは言えないです。
中間管理職の板挟みというやつです。
コミュ力が低いのでメンバーをまとめるのは苦手です。
プロジェクトを推進することはできますが、メンバーの人心掌握は十分にできていない状況です。
ただ私のようなコミュ力の低い人間でも管理職になれたことには自分でも驚きではあります。
コミュ力は低いですが、会議の場で発言することや主体的に行動することが認められたのかもしれません。
そこは素直に成長したんだと自信を持っても良いところだと思います。

私が管理職として心がけていることは情報共有と負荷分散とフィードバックです。
仕事の目的を伝えるために特に情報共有は心掛けています。
負荷分散については上手くできていません。
一部の優秀なメンバーに頼っている部分はあります。
残業時間もバラつきがあって不公平感が出ているかもしれません。
フィードバックはあまりできていません。
労いの言葉はかけていますが、メンバーのモチベーションを引き出せているとは言えません。
メンバー自らがチームのために自主的に動いているとは言えないです。
納期を守るという大義名分をチラつかせて推進している状況です。
私の指導力不足だと思います。
個別で話してメンバー個人のモチベーションを引き出す必要があるのかもしれません。
ただ私は管理職とはいえ部下からは信頼されているとはいえず、一部の部下は私が管理職であることが気に食わないと思っていると邪推しています。
なめられているのかもしれません。話しても素直に聞いてくれるとは思えずに個別に話すのを躊躇しています。
ここは私のコミュ力の低さが足枷になっています。

管理職になって自分でも意外だったのが、権限を持つことで(あくまで仕事を推進させるためであるが)他人をコントロールしたい欲を少しばかり持つようになったことでした。
権力の魔力のようなものを少しばかり理解した気がします。

管理職は鈍感力がないと続けられないと思います。 管理職は図太さが必要だと思います。 私は細かいことを気にして引きずる傾向があります。
図太くなる強さを身につけたいですが、強気になり切れずにブレーキをかけてしまう弱い自分がいます。

なので来年には管理職は下りるかもしれません。
短期間といえ管理職になって部下を指導する立場になったことは良い経験になりました。

27.物語を宿すこと――使命感

幸せだけれど、どこか虚しさと不安を感じている――ここ数か月はそんな状態です。

仕事は順調で激務というわけでもなく、ワークライフバランスも取れています。
出世して仕事にもそれなりのやりがいは感じています。
しかし一方で心底打ち込める仕事でもないとも感じています。
これ以上出世したい願望はほとんどありません。

今関心のあることは環境問題です。
消費社会への疑問を持っています。
自分の仕事も環境を汚す一端となっています。
しかし、ほとんどの仕事は環境を汚していると思います。
消費しないと生産しないと経済は回りません。
しかし十分豊かだから地球を傷付けてまで経済を回す必要はないという考えに最近行き着きました。
元々物欲は強くなく脱資本主事的な記事や書籍を読むにつれその考えは強くなりました。
最低限の生活ができればそれで良いのではないかと。
しかし人間の欲望は留まることを知りません。
欲望をなくしたら生きる活力がなくなるのでしょう。
以前には成長したい、仕事で成果を上げたいという欲は持っていましたが、ある程度は達成したので満足感を持てるようになりました。もちろん上を見れば私なんぞは全然ですが、自分の中では満足しています。 今は自分が欲望をなくして生きる活力を失っている状態に陥っているのかもしれません。

この虚しさを打破するためには、自分の中に物語を宿すことが必要だと考えました。

世の中にはフィクション・ノンフィクション問わず幾多の物語があります。
それらの登場人物に心酔します。憧れます。
物語は生きる活力をもたらしてくれます。

多くの物語には分かりやすい目的や使命があります。
苦境やハンディキャップを乗り越えるまでの挫折や葛藤があり、それらを乗り越えた後の達成感に感動を覚えます。

しかし、私のような凡人の人生にはわかりやすい目的や使命はありません。

ただ生きる――それが人生の目的なのでしょうか。
しかし幸いなことに(少なくとも私は)ここ日本ではただ生きることであれば多くを望まなければそれほど困難ではないです。
ただ生きるだけじゃなく美味しいものを食べたり欲しい物も比較的簡単に手に入れられます。

家族を持つ身としては家族のために頑張ろうというモチベーションは持っています。 しかし、家族のために仕事を死に物狂いで頑張ろうとまでは思えません。 仕事を頑張る=家族のためとはなりません。 現状は幸いなことに経済的には困っておらず仕事を頑張ってそこまで収入を上げる必要性もあまりないです。

最近は漫画をよく読むようになりました。
漫画の登場人物たちはどうしてあんなに魅力的かというと目的のためへの執着心、使命感の高さ、仲間を想う利他精神、etcを持っているからだと思います。

虚しさから脱却するために自分の中に(漫画のような)物語を宿すことが必要だと思うようになりました。 私は漫画の登場人物のような使命感の高い人に憧れています。
なので物語を宿すとは使命感を持つことだと無理やり考えました。

自分の使命とは何か――それを毎日考えていますが、答えは出ていません。

26.コミュ力におけるマウンティング

このブログでは何度も書いていることですが、私は会話が苦手です。

会話に参加できないと「暗い奴」「面白くないやつ」と思われます。
そう思われるのは怖いですが、気の利いた或いは面白い発言をしなければと勝手にプレッシャーを感じて口を開くのを躊躇してしまいます。
思い切って発言しても、声が小さく誰にも拾われないことが多々あります。
自分の発言に自信がないから声が引っ込んでしまうのです。

こうして自己分析してみるとなんてくだらないことで悩んでいるのだろうと思います。

場数を踏むにも会話をする相手がいません。
会話をしても話が膨らむことも盛り上がることもなく、終わってしまいます。
相手からは会話しても面白くないやつとレッテルを貼られてしまいます。
だから次の会話の機会が得られません。
こうして会話力を鍛える機会を損失してしまいます。
そんな間に他の人は会話に花を咲かせて盛り上がっています。

しかし、こういった悩みを持つのは私だけではないはずです。
無口で会話を好まない人もいるはずです。そういった人たちと仲良くなりたいです。
しかし、そういった人達なら気兼ねなく話せるだろうと自分のことを棚に上げて相手を下に見ている卑しい思惑があります。
こういった思惑を持って話しても相手には当然響かないと思います。
「あ、こいつ自分のことを下に見てるな」と思うような相手と仲良くなりたいとは思いません。
最近の流行り言葉の「マウンティング」をする心理なのでしょうか。

相手を見下して自尊心を満たすのは卑しいし虚しいです。
しかし、自分の価値を一番わかりやすく測る物差しは「他人」であるから、他人と比較して自分より下な人間がいると思うと安心するので比較をしてしまいます。
自分よりも上の人と比較すると劣等感を感じてしまうので、下と思える人を探して比較して自尊心を満たそうとします。

過去に「他人との比較」という同じような内容の記事を書いていました。

kesepian.hateblo.jp

この記事を書いてからも同じようなことを書いたということは無意識に「他人と比較して安心する」思考パターンが染みついているのでしょう。
染みついた思考パターンを変えるのは難しいですが、他人との比較はやめることを強く意識して心がけたいです。

25.必要とされたい(承認欲求)

私は他人から頼られることは少ないです。
ですので、人から頼られると大変嬉しく思います。

以前の職場で離任する際に若い女性社員から「〇〇さんは良いリーダーでした」と伝えてくれたことがありました。
私はそう言った言葉をかけられる機会が少ないので、涙が出そうなほど嬉しかったです。
良くも悪くも人の放つ生身の言葉は強いと思わされました。

マズローの欲求5段階でいうところの承認欲求が満たされたのでしょう。
ferret-plus.com

「自分の行為がほかの人に役に立った」ことが認められると嬉しいです。
自尊心が満たされます。

そういう言葉は女性の方がよくかけてくれる印象があります。
女性の方が共感力が高いからでしょうか。

他人から自己肯定感を満たしてくれる言葉をかけられると嬉しいし、その人のことを快く思います。
反対に人から少しでも否定的なことを言われると、その人のことを快く思いません。

繰り返しになりますが、人の放つ生身の言葉は重いと思わされます。
言った人は何気なく軽く言ったつもりでも相手は重く受け取ることはあると思います。

だから自分も言葉には気を付けたいですし、相手に対して肯定的な言葉をかけるように心がけたいです。

24.自己開示

このブログでは何度も書いていることですが、私は会話が苦手です。

会話が苦手な理由

私は極度のシャイです。
(今では改善できましたが特に子供の頃は)自分のことを話すと赤面してしまいます。 だから自分のことは極力話さないようにしてきました。 自分のことを聞かれても当たり障りのない回答をしてしまいます。 だから会話が膨らみません。 それで自分がつまらない人間だと思われて、自分のことを聞かれなくなります。 自分のことを聞かれないのはホッとする反面、誰も自分のことに関心ないのだと感じ一抹の寂しさを覚えます。 自分のことを話せない(話さない)理由は学生時代の過ごし方にあると考えます。 学生時代(特に高校~大学の7年間)は空っぽな期間でした。
感受性が豊かな多感な時期に空っぽな過ごし方をしたのは私の人生で最大の損失と言っても過言ではありません。 部活に打ち込んだり、友達と遊んだり、恋愛を謳歌したり、または趣味に打ち込んだりと所謂青春を謳歌する時期です。 そういうことは一切できませんでした。 なので社会人になってからも学生時時代のことは会話の話題になりやすく、学生時代の会話を通じて共感し合うことで仲が深まることは多いと思います。 私は学生時代の過ごし方は聞かれたくない一番の話題なので極力話さないようにしてきました。
だから共感して仲が深まることは皆無でした。
自分は空っぽな学生時代だったと自虐的に話せればよいのですが、つまらない自尊心が邪魔をして話せません。

恥ずかしいと思う理由

こんなことに悩むなんて自分は本当に甘ちゃんだと思います。
今まで深く考えたことはありませんでしたが、恥ずかしいという感情はどこから来るのだろうと考えてみました。
自分のことを話すのが何故恥ずかしいのでしょうか。自分のことを話して「○○さんってこんな人なんだ」と思われるのが、恥ずかしいのでしょうか。
例えばオタク的な趣味を持っていたとして、その趣味を開示することで「○○さんはオタク」というレッテルを貼られます。
「こんな人」というレッテルを貼られるのが嫌だから恥ずかしさを感じるのでしょうか。
私の場合は「学生時代に友達もおらず何もしてこなかった」ことが恥ずかしいので、人に話したくありません。
これを話すと「○○さんは根暗な学生時代を送ってたんだ」と思われ、自分を下に見られる恐れがあるからです。
ここまで書いて人に見下されたくないことが自分のことを話せない理由だと気付きました。

自意識過剰

学生時代以外の話をする場合はコンプレックスを持っておりませんので、比較的自分のことでも話すことができます。
しかし自分のことを話すのは、自意識過剰と思われるので控えてしまいます。(そんな忖度した気持ちこそが自意識過剰だとも思いますが)
誰も自分にそれほど関心は持っていません。
こうして考えると自分の悩みなんて取るに足りない些細なものです。
しかし、実際に人前に出ると恥の意識が出て、自己開示が出来なくなります。
雑談の場では基本的には口を閉ざし会話に参加できず、一人取り残された状態になります。
この一人取り残された状態によって疎外感・孤独感を感じます。
「一人取り残された状態」と感じることこそ自意識過剰なのかもしれません。
繰り返しますが誰も私にそれほどの関心は持っていません。   

プライドを捨てることの難しさ

ここまで書いて当たり前のことに気付きました。
自分のことを話さないから自分に関心を持ってもらえないのだと思います。
よく知らない人には話かけ辛いですし、関心も持ってもらえません。
自業自得です。
自己開示は人に関心を持ってもらうために必要なことという当たり前のことに気付きました。

自己開示するためには

会話しなくても人に迷惑をかけているわけじゃありません。人畜無害の私です。
最低限の会話でも暮らしていけます。幸い事務的な会話はさほど苦になく出来るようにはなりました。

それでも会話に渇望する時があります。
真面目な深い話をしたいです。

古代ローマの哲学者キケロの言葉「世界で最も強い満足感をもたらす経験とは、地球上のあらゆる題材について、自分自身に向かって語るのと同じくらい自由に話せる相手をもつことである」――その相手が欲しいです。

まとめ

とりとめのない文章になってしまいました。今までこのブログで書いた内容と重複している部分もあります。
しかし、深堀することで気付いたこともありました。
時が経つと同じ悩みに直面してまた同じようなブログを書いてしまうかもしれません。
そうならないように日々「自己開示」を心掛けたいと意思表示をして締めさせていただきます。

P.S
約1年ぶりの更新になりました。
昨年はコロナ禍でブログを書く時間は確保できそうでしたが、更新できませんでした。 (下書きは書いてましたが、自分の文章力のなさに絶望して筆が進みませんでした)

P.S2 「17.自意識過剰」でも同じようなことを書いていました。同じような悩みを繰り返し書くのは克服できていないということでしょう。

23.人間嫌い

気付き

先日、私は自分は人間嫌いなんだということに気付きました。

仕事中に周りが談笑していると落ち着きません。うるさく感じます。
少しくらいは会話に交りたい気持ちはありますが、それ以上に会話に交れずに疎外感を感じることを恐れています。
その会話の輪が広がって盛り上がって自分は盛り上がりに入れず蚊帳の外となると焦ります。
こういう時に自分は黙々と仕事を続けることを試みますが、気になって集中できません。

最近ランチを同僚と食べに行く機会が多くなりました。
ただランチでの雑談にあまり話に入っていけないことが多いです。
そして私に話を振られることはほとんどありません。
これは被害妄想かもしれませんが私がコミュ力が低いゆえに絡みにくい人間と思わているからだと思っています。 以前に昼休みはいつも一人で会話に餓えているということを書きましたが、このようなことがあるので基本は会話は苦痛なのだと気付きました。

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常に会話に気を配らせて気の利いたコメントしなければとプレッシャーを感じません。気の利いたコメントをしなければいけないというプレッシャーを勝手に感じます。
だからリラックス出来ません。 いや、会話の質によります。仕事の話など真面目な話だと特に苦はなくスムーズに話ができます。
いじる・いじられるといったノリが苦手です。おちゃらけた話が苦手なのです。
要するには自分は堅物なんだと思います。

原因

人間嫌いの原因を突き詰めて考えてみるとは自分のことしか考えていない裏返しだと思いました。
他人に関心が持てないから、他人がうざったく感じます。
他人に敬意を持てないから、他人の悪い点ばかりが目につきます。
自分のくだらない自尊心を守るための卑屈な思考です。
だから誰も自分に関心を持たないのです。

これからの心掛け

他人の良いところを探すように心掛けます。
他人の悪いと思うところを欠点ではなく弱い部分と捉えて、弱い部分だからあまり責めないように心掛けます。 私自身弱い部分が多い人間なので弱い部分を責められると辛いので。
自分を開示して話しかけるように心掛けたいですが、これはコミュ力低いので難しいです。
どうしても合わない人や嫌な人もいるので、そういった人たちとは距離を置いてその人のことを考えないようにします。
嫌な人のことを考えても精神衛生上良くないので。
(嫌な人を妄想の中で攻撃することはあるのですが、それは空しいですし精神衛生上良くありません)