15.時間

約1年ぶりの更新となります。
早いもので9月も終わりです。
今年も既に4分の3が過ぎようとしています。
年齢を重ねるに連れて1年が短く感じます。
昨年は特に時が過ぎるのが早く感じました。
(今更ですが)昨年を振り返ると良くも悪くも安定しておりストレスも少なく平穏な一年でした。
これは幸せなことでしょうが、少しはメリハリもあったほうが良いとも思います。

20歳の時の1年は人生の20分の1、40歳の時の1年は人生の40分の1となります。
だから前者と比較すると後者は体感する時間は半分くらいに感じられるのだと思います。
だから若い頃と比較して時間の重みが薄れていると思います。
今は生活は充実していますが、時間が足りません。
学生の頃は友達もおらず学校の時間が苦でした。
だから時間が早く過ぎてほしいと思っていました。
その頃は1日が長く感じていたと思います。
今から思うと大変もったいない過ごし方をしていました。
何か打ち込むものでもあればよかったのですが、ただ時が流れるのを指をくわえてやり過ごしておりました。

若い時の過ごし方・経験はとても大切と思います。
今まで書いたブログでも何度か言及しましたが、若い時の過ごし方を深く後悔しております。 ただその後悔があるから今は時間を大切に有効に使おうという意識が強くなりました。
今では、空っぽだった過去も「今の自分に繋がるための過去」と無理やり肯定できるようになりました。

年を重ねると過去を振り返るようになります。
人は過去を美化する生き物と言われるように、歳月が経つと辛かった過去も苦い思い出として浄化できるようになると思います。 ただ過去の辛さを浄化できるようになる歳月の長さは辛さの重みに比例すると思います。
辛さが重すぎると浄化を待つ余裕なんてとても持てません。
辛さに直面したら逃げるのも一つの手と思います。私はそうして生きてきました。

久しぶりに書いて何が言いたいのかよく分からない内容になりました。

乱暴に書くと「(特に若い時の)時間は有限だから、時間を有効に使うべき」ということを学生時代の自分に言いたかっただけです。
過去を振り返るのは年を取ってからで良いと思います。

14.感情

感情とは厄介です。

感情的になると失敗することが多いです。

平常心を保つことが大切です。

 

しかし感情的になるのは人間の持つ特性です。

人間誰しも(主にネガティブな)感情的な発言をしてしまうことはあります。

政治家の失言やSNSでの不用意な発言も感情に任せてのものだと思います。

挑発されたら感情的になってしまいます。

そこを平常心をもって耐えるのが大人なのでしょうが、一時的な感情の高まりには寛容になりたいです。

昨今多い世間のスキャンダル(スキャンダルは感情に任せた行為の結果であるように思います)に対してSNSやニュースサイトのコメントなどで、鬼の首を取ったように糾弾する様を見ると世の中から虐めという行為はなくならないと思わずにはいられません。

(そういうものを見てしまう自分はつくづく俗人です)

 

他人の感情の揺れには限度はありますが寛容になりたいです。

ただ自分の感情は制御しなければいけないと考えています。

自分の感情に寛容になることはただの我儘・甘えになります。

 

私は人前で感情を爆発させることは滅多にありません。

しかし、ネガティブな感情を溜め込むのは良くありません。

感情を外に発散するのではなく、内で浄化するように心がけています。

悲しい時や虚しい時などネガティブな感情が心を支配する時は音楽を聴くようにしています。

音楽はとても感情に訴えるものがあり、心が浄化されます。

また、その時の心情を書き綴るのも高い浄化作用があります。

このブログを始めたきっかけの一つもそれであります。

今も数時間前にネガティブな感情に陥っていたので、これを書いています。

書くことでスッキリしました。

 

追記

このブログはたいていネガティブな感情に陥った時に書いています。

ブログの更新頻度が落ちているのはここしばらくは心が安定していたからだと思います。

13.会話

私はオフィス街で働いているのですが、昼休み時間はいつも一人で昼食を食べています。私は食に対する執着はあまりなく、安くて一人で入りやすい店に入ることが多いです。

周りの人たちが同僚たちと楽しそうに会話している姿を見るとたまに羨ましく思います。会社でプライベートの会話をする機会は食事時が一番多いのではないかと思います。飲み会がその最たる機会であると思います。

以前にも書きましたが私は飲み会は苦手です。しかし、昼食時の会話ならお酒も入っていないこともあって、たまには話したいと思うことはあります。

しかし、独りの方が気を遣わなくてもよいのでランチを一人で取ることは、おおむね満足しています。会話したくなるのはあくまで「たまに」です。

 

私は学生の頃も昼食はほとんど一人でした。(今の言葉で言うとぼっち飯と言うのでしょうか)

学校という空間は友達・同級生とどう関係するかが全てといっても過言ではない場だと思います。

その中で一人で昼休み・休み時間をどう過ごすかは私にとって難題でした。

スマホも携帯電話もない時代です。

同級生と会話することが休み時間の過ごし方の大半であったと思います。

友達も会話する人もいなかった私は、ほとんどの時間を机に座ってぼーっとしていたと記憶しております。

瞑想していると揶揄されたこともありました。

今思えば、文庫本でも読んでいれば良かったのですが、その当時文庫本を読むような同級生はおらず、そういった浮いた行動をできるようなメンタルも持っていませんでした。

友達がいないのに同調圧力を気にするような自分を持っていない学生時代でした。

その頃は周りが会話に盛り上がっていても、特に会話を交わりたい願望はありませんでした。

とにかく時が早く流れてほしいと思っていたように記憶しています。

時間が最も貴重なリソースと思うようになった今からすると、とてももったいない過ごし方でした。学生時代の過ごし方は自分の人生で最も後悔していることの一つです。

勉強を頑張ったわけでもない、部活を頑張ったわけでもない、何もなかった学生時代でした。

その何もなかった中でも一番なかったのは会話です。

 

私の人生に決定的に欠如しているものは会話です。

私の人生における会話の絶対量が少ないです。

一人は苦にならないし寧ろ一人の時間は好きなのですが、たまに無性に人と話をしたくなる時があります。

前言を撤回するようですが、人と会話する時間は人生で一番と言っても良いほど楽しい瞬間であると思います。

ただ周りに合わせるだけの会話やテンションについていけない会話に付き合うのは苦痛です。

大抵な場合は後者になるので、飲み会などに足を運ぶのは二の足を踏みます。

少人数で落ち着いた深い話をしたいと思う今日この頃です。

12.恋愛

恋愛について書きます。

私は恋愛経験は豊富ではありません。

学生時代は遠くで見てるだけの一方的な片思いが少々あった程度でした。

そもそも友達もいないのに恋人を持つなんて夢のまた夢でした。

社会人になって自分に少し自信が持てるようになった頃、同じ職場にすごく好きになった女性がいました。
ほとんど一目惚れでしたが、どこに惹かれたかは全く分かりません。
私は自分がコミュニケーションが下手ということもあって気さくな人が好きでした。
その女性は特別美人でもなく、気さくなタイプでもありませんでした。
特に自分の好きなタイプに当てはまる女性ではなかったと思っています。

仕事中もその女性のことばかり考えていました。仕事にもあまり身が入らなかったように記憶しています。

このような感情を持ったのは生まれて初めてでした。 

日に日にその感情は高まって制御できなくなっていました。

そして思い切って告白してふられました。

冷静に考えてればこの結果は至極当然だったのですが、その時は冷静に判断できませんでした。

この先にこういった感情は持ったことはありません。

自分が恋愛していると酔いたかっただけなのかもしれません。

子孫を残すために異性に近づけという本能だったのかもしれません。

ふられた後は数年は引き摺りました。

その女性の最寄りの駅は知っていたので最寄りの駅で張り込んでストーカーをすることも頭に過りました。

実行しなくて良かったと心底思っておりますが、色恋沙汰での不条理な心理を身を持って理解できた気がするので、この経験は自分にとって大きな財産です。

 

今から振り返っても何故好きになったのかは理解できません。

一目見たときに直感的に「この人だ」と感じ取った記憶はあります。

仕事に自信がついたタイミングで現れた手の届きそうな(そこまで美人ではない)女性だったので、「仕事に自信がついた今ならこの女性に(なら)振り向いてもらえる」と本能的に感じ取ったのかもしれません。

この女性のことを昼夜思い続けていたのは、子孫を残したいという生物の本能がこのチャンスを逃すなと恋の指令を脳に出し続けていたからかもしれません。

この仮説は割としっくりきますが、打算のようであまりにロマンがないので却下したい考えです。

この苦く淡かった恋愛経験は謎のままそっと胸の奥に置いておきたいです。

11.失敗体験

約5か月ぶりの更新になります。

(約5か月前に下書きを書いたのですが、放置しておりました)

このブログは主に夜に書いています。
「夜書いた手紙は朝見直せ」という格言?の通り、夜書いたブログを後から読み直すと恥ずかしく思うことが多いです。
前回のブログで不安感について書きましたが、読み返してみたら何が言いたいのか良くわからない内容でした。

恥ずかしい限りです。
しかし、このブログは日常生活では言えない恥ずかしいことも書きたいと考えていますので、夜書いて朝見直すこともなく公開したいと思っています。

不安感の正体を改めて考えてみたところ、それは数年前の仕事での大きな失敗体験が尾を引いていることだと判明しました。
何故不安感の正体がすぐに出てこなかったのは、この失敗体験は自分の中でなかったことになっていたからでした。
完全に忘れた訳ではないですが、無意識に思い出さないようにしていました。
都合の悪いことは忘れる人間の性(自己防衛本能)だと思います。

この失敗体験を久しぶりに思い出して当時の悔しい思いが蘇ってきました。
「自分はダメな人間だ」という自己否定感に苛まれた当時を思い出し、落ち込みました。

この失敗体験の後、数か月は落ち込みました。

しかし、この失敗体験は自分の限界を知りえた貴重な機会だったとポジティブに捉えるようにしています。

 

少し前に有名企業に勤める若い女性が過労で自殺するというニュースがありました。

このようなニュースを見聞きするたびに「なぜ辞めないのだろう」と疑問に思います。

死ぬことが一番怖いはずなのに、死に逃げるほど追い込まれていたのでしょうか。

会社を辞めることは人生の負けを意味して、死よりも重かったのでしょうか。

仕事に命を懸ける――言葉は格好良いですが、死んでしまったら何も残りません。 

私にとって仕事は命を懸けるほどのものではないことは失敗体験で知り得ることが出来ました。

しかし、不安感を打ち消すためには失敗体験を打ち消すほどの成功体験が必要と思っています。

「若いうちは失敗しろ」とよく言われますが、それは成功のための糧にしろという意味になると思います。

今は仕事の成功よりも生活の安定を望んでいますが、いつかは仕事において成功を収めたいと考えております。

10.不安感

約5か月ぶりの投稿です。
このブログを始めて10回目の投稿になります。
この5か月間はブログを書くモチベーションが低下していました。
日常生活においてブログを書く優先順位は低いです。
しかし今はブログを書くモチベーションが高まったので久しぶりに投稿しました。

最初の投稿で目標を100回続けると書きましたので、初志貫徹で100回まで続けたいと考えております。
拙い文章なのは仕方がないのですが、地道に続けていければと考えております。

このブログではコミュ力について書いていくつもりでしたが、100回もコミュ力について書くのは難しそうなので、テーマは絞らず自分の書きたいことを書いていきたいと考えております。
(ブログを書くこともコミュ力の一つだとブログを書くことがコミュ力でもあると無理やりこじつけさせていただきたく存じます)

匿名のブログの良いところは日常生活で言えないことを吐き出せることだと思います。
ですので、日常生活では声に出して言えないようなことを書いてきたいと考えております。

今回は不安感について書きます。

私は今の生活に概ね満足しています。
しかし常に心の奥底に不安感のような感情が横たわっています。
この感情は自分の他人との関係構築の下手さに起因していると考えています。

私は承認欲求という強い欲求はありませんが、人に嫌われたくない欲求を持っています。
ですので嫌われたくない警戒心から他人に対して消極的になります。
初対面に人には「こんなこと聞いたら嫌われるかな?」と思い、初対面の人には当たり障りのない話しかできません。
(多くの人もそうであると思うので、特別問題にすることではないと思いますが)

それでも初対面の人と当たり障りのない話をする関係を築くことはできるようになりました。
しかし深い話をできる関係にまで築くのがとても苦手です。
それは嫌われたくない一心で自分から心を開かないからです。
自意識過剰とは分かっていますが、他人の言葉に過敏に反応してしまいます。

嫌われたくない

不安感の正体は他人から嫌われたくないという自己防衛本能に起因するのかもしれません。

つらつらと書いてみたもののこの不安感の正体は良くわかりません。
この不安感は一生付きまとうものだとも思います。
この不安感は生きている実感でもあるのかもしれません。

9.社会人時代

以前に学生時代について書きましたので、今回は社会人になってからのことを書きたいと思います。

 

kesepian.hateblo.jp

 

新卒で入社した会社は、新人研修が終わってからいきなり激務だったこともあり、苦労しました。

社会の洗礼を受けました。

ただ仕事内容は苦に感じることもなく、面白いとも感じ、充実感も得られたように記憶しております。

評価されることもありました。

大げさかもしれませんが、生まれて初めて存在理由を感じられたとさえ思えました。

 

忙しさゆえに人間関係にかまける余裕がなかったのが良かったのだと思います。

仕事なので強制的にコミュニケーションを取る必要があるので、学生時代よりははるかに周りの人たちと良好な関係を築けていたと思います。

そうして仕事に自信を持つようになりました。

 

しかし仕事に自信を持つ一方で、コミュ力不足の悩みは解消されることはありませんでした。

「学生時代よりははるかに周りの人たちと良好な関係を築けていた」と上述しましたが、「あくまで学生時代よりは」であり元が酷すぎただけです。

同僚たちとの昼休みなどでの会話の話題は新卒の場合、学生時代の話が必然的に多くなります。
同期たちの「リア充」な学生時代の話を聞くと激しく劣等感を感じて、私は貝のように口を閉ざしました。
話を振られても曖昧な返答をして適当にごまかしました。

上手くコミュニケーションが取れない自分に絶望をさえ感じていました。

仕事に自信を持ったがゆえに、自分のコミュ力不足の劣等感が許せなかったのかもしれません。

その絶望感から逃げるために人間関係をリセットしたいと思い、転職を決断しました。

新しい場所では自分は変われると思っていたのかもしれませんが、変われませんでした。

(最近になって自分は変われないと諦観するようになれました)

その後今に至るまで数回の転職を繰り返してきました。

転職の理由は様々ですが、人間関係をうまく構築できなかったことが主な理由です。

 

転職を何度かしたことで、同世代が切磋琢磨してステップアップする中、私はあまりステップアップできずに仕事においても劣等感を抱くようになりました。

(転職という安易な逃げの選択をしてきたため、自業自得だと思っております)

仕事で目に見えた成果を上げることが自分の存在証明と思い努力はしましたが、現実の厳しさの前に挫折を繰り返しました。

それでももがきながらも少しずつ自信を取り戻し、仕事の成果も少しずつですが上げられるようになりました。

 

その後、幸いにも結婚をすることができ私生活においても幸せを得ることができました。

結婚生活も簡単ではなかったですが、数年後子宝を授かりました。 

仕事以外の生きる意味を見いだせました。

コミュ力は相変わらず低いですが、満足のいく人生を送れていると思います。

恵まれている、幸せな人間だと思っています。

 

振り返ってみると私のコミュ力の悩みなんて取るに足りないものだとも思いました。

しかし、コミュ力が上がれば人生がもっと楽しくなる期待を込めて、このブログでコミュ力に向き合っていきたいと思います。