22.ひきこもり

時事的なことを書いてみようと思います。 「ひきこもり」とは、Wikipediaによると「仕事や学校に行けず家に籠り、家族以外とほとんど交流がない人の状況を指す。」とあります。 一言で「ひきこもり」と言っても人それぞれの原因や背景があると思いますが、ひきこもりになる原因の大半は人間関係に端を発するものだと考えます。
外に出たくないというより人に会いたくないのだと思います。特に知っている人には会いたくない心理があると思います。

そしてひきこもり期間が長ければ長くなるほど社会に出るのが困難になってくると思います。
一度ひきこもりになると抜け出すのは相当困難だと思います。
だから、ひきこもりを止めさせるよりもひきこもりを認める必要があると思います。
「ひきこもり」という言葉はネガティブな響きがあります。
あまりに理想的すぎますが、ひきこもりも一つの権利として認めて気軽にひきこもれたり気軽にひきこもりから脱せるような社会になれば良いと思います。

社会に出て日々仕事に苦闘している人からしたら、ひきこもりは許せないのかもしれません。
しかし労働力という観点で考えると、これからのAI時代ではすべての人が働く必要もなくなっていると思います。
ですので、長期化さえしなければひきこもりの人がいても良いと思います。 私は少し前まで「働かざる者食うべからず」と考えを強く持っていました。
しかし、この考えはある意味洗脳的で危ない考えと思うようになりました。
(今の時代はこの言葉を口にしたら時代錯誤を言われるでしょう。)

働くことは意味があり意義のあることでありますが、働くこと以外にも意味や意義はあります。
人は存在するだけでも価値があるのだと思います。
ただ私の場合はそれでも働きたいです。
それは仕事を通じて「社会に貢献している」「社会に繋がっている」実感を得たいからです。
仕事に疲れて会社を辞めて一時的に休んでいたことがあったのですが、自分が「社会の一員ではない」不安感のようなものを感じていました。これは私にとって仕事が社会とのほぼ唯一の接点だった寂しい人間だったからだと思います。 「ひきこもり」の一番の弊害は社会とのつながりを断たれることであると思います。
このつながりがなくなると生きる活力がなくなると思います。
だからネットを活用してでもつながりを作ることが大切であると考えます。
(古い人間の自分にとってはネットより直に会う機会があったほうが良いと考えますが)

とは言っても私のようなコミュ力の低い人間はネットを使ってもつながりを作るのは難しいです。 だから、つながりを作るために強制的に(薄くても)労働することはひきこもり脱却に向けて必要なことなのかとも思います。 これからの時代は「社会に貢献するための労働」というよりは「社会に繋がっている実感を得るための労働」の価値が重要視されるような気がしております。

21.ファン心理

私は好きな異性が好きな音楽を好きになったり、尊敬する人が好きな作家の本を読んだりする傾向があります。 私は小説をよく読むのですが、同じ作家の作品を追って読む傾向があります。また、その作家が影響を受けた作家の小説を読む傾向もあります。 作品の内容はもちろん重要ですが、その作品を生み出した作家の人間性みたいなものにも興味を惹かれるからです。

作品には一定のクオリティは必要ですが、私にとって「誰が作った、影響を受けた」という部分が感情移入できるかどうかの大きな要因になります。 私にとって感情移入できるかどうかという部分はとても重要です。(感情移入できるかどうかは作家に対してもであり作品の登場人物に対してでもあります) だから、例えばあまり興味のなかったミュージシャンでも好きな異性や尊敬する人が好きだと「あの人が好きだから」という理由で感情移入して好きになる傾向があります。

こういう傾向になるのはファン心理というのでしょうか。 ファンになりその人に夢中になればなるほどその人に心酔していきます。 盲目的にその人に心酔するのは、自分の頭でものを考えなくて良いから楽でもあり心地良くもあるのだと思います。 熱狂的なファンはこういう状態になっているのだと思います。

これを意図時にコントロールしているのが洗脳になるのだと思います。 どんなに好きな人・尊敬する人の考えであっても自分で考えて批判する精神も必要と思います。

ただ軽い洗脳であれば悪くないとも考えます。 誰しも親や先生など他人に影響を受けていると思います。これは洗脳とは呼ばないと思いますが、程度の違いだけで意味としては同じになると考えます。 極端な言い方をすると洗脳されていない状態は全てのことを自分で考えて決断する状態になると思います。

この複雑で不条理な世の中のこと全てを自分の頭で考えるのはかなりしんどいと思います。 だから尊敬する人や好きな人の考えを追随するのは楽であり、それが間違っていたとしても、心から尊敬する人、好きな人の考えだから諦めがつく心理もあると思います。 (これは洗脳とは言わず信頼というべきと思いますが)

心から尊敬・信頼できる人、好きな人に出会えるかどうかが人生を良くする大きな要因でもあると考えるようになりました。 そして自分が他人から尊敬・信頼されると自分の存在意義を強く感じ、今の言葉でいうところの承認欲求を満たされるのだと思います。 (承認欲求については別の機会で書いてみたいと思います)

20.TOKYOネガティブウォーキング

このブログをはじめて3年が経ちました。
久しぶりに20記事目を書きます。
このブログのアクセス解析を見てみました。 
自分以外は誰も見ていないようです。   自己満足で始めたブログですので、自分のために書きます。

私は歩くのが好きです。
仕事帰りに音楽を聴きながら夜の東京の街を歩くのがひそかな楽しみであります。
現在は家庭もあるので頻度は減っていますが、煌びやかな街を横目に感傷に浸りながら歩くのが好きです。 BGMは大体暗めのセンチメンタルな気分になれる音楽を聴くことが多いです。

銀座や六本木、渋谷など普段は出歩かないような街を歩くのが好きです。
繁華街の酒場では仕事帰りだろう人達が賑わっています。飲み会は嫌いですが、こういう場を横目で見ると羨ましく思います。
しかしそういった場の当事者になったら自分は疎外感を感じて楽しめないのだと思います。だから横目で見て羨むくらいが良いのだと思っています。 傍から見たら危ない人間に見えるかもしれませんが、幸い東京は人があふれているので、地味な私など誰も記憶に残らないでしょう。

自分の中でこの夜の歩行を「TOKYOネガティブウォーキング」と呼んでいます。
東京に来てから病んでいた時期もあったので、次の日が休みの金曜日に良く歩いていました。花金の賑わいと一人で暗い音楽を聴きながら歩く自分との対比によって、より感傷に浸れるものでした。

「ネガティブ」と銘打っていますが、これをすると心が浄化される感覚を得られるので止めれらません。
特に仕事で嫌なことがあったりストレスが溜まっていたりした後はより感傷に浸れるので心が浄化されます。
歩いていると思考が進んであれこれ考えます。

この夜の街の歩行を止められません。 (「TOKYOネガティブウォーキング」ではなく「TOKYOシンキングトーキング」と変名したほうが良いかもしれませんが、響きが良くないのでそのままにしておきます)

19.他人との比較

2年ほど前から匿名でSNSをしております。
最初は著名人の生の声に触れられることから始めたのですが、著名人ではない一般であろう人達の言葉に感銘を受けるようになりました。
意識の高い発言であったり、鋭い洞察眼であったり、考えさせられる発言だったりと刺激を受けました。
しかし刺激を受ける一方でその人達と自分を比較して自分を卑下するようにもなります。
周りは皆意識が高くて頭が良くて実績もあるのに、それとひきかえ自分は・・・と凹むこともあります。
しかし一般であろう人達と言ってもSNSで意識高い発言をしている人達は、所謂「普通」の人ではありません。
恐らく実生活でもそれなりの地位を築いて周りから一目置かれている人達なのでしょう。
SNSを見ると周りはそういう人達ばかりでは?と錯覚してしまいます。
錯覚する理由は自分のような「普通(以下?)」の人たちの発言を見ても面白くもないから、意識高い人達の発言を選別して見るようにしているからです。
自分とそういう人達と比較をしてしまいます。
意識高い人達から刺激を受けるのは良いことですが、本当の自分を見失います。
反対に自分よりも劣ると思う人達を見て安心するという心理もありますが、それはそれで健全ではありません。

世の中は競争社会です。だから他人との比較は避けられません。
凡人の私は他人との比較で相対的にしか自分の立ち位置を測れないから、「自分」を測る物差しに「他人」を使っています。

尊敬を集める人たちは、なりたい自分(夢・目標)が明確に決まっていて、それに向けて邁進しているのでしょう。だから他人との比較などしている暇はないのでしょう。

自分は自分、他人は他人。自分に良いところもあれば悪いところもある。他人に良いところもあれば悪いところもある。 それを素直に受け入れることが「他人との比較」から距離を置く第一歩なのかなと思います。

世界に一つだけの花」という歌があるように周りに惑わされることなく、「自分」というしっかりした芯を持って地に足を着けて生きていくことが大切だと思います。

18.コミュ力格差

コミュ力が低いと集団で疎外感を味わいます。
周りが楽しく談笑している中で一人だけ話に参加できず、ポツンと浮いてしまう状態は辛いです。
私を含むそういった人は集団の中に何人かはいると思います。
そういったコミュ力が低い人達同士で仲良くすれば、疎外感を解消できるのにと思われるかもしれません。
しかしコミュ力の低い人はそもそもコミュニケーションが下手なので仲良くなるきっかけが掴めません。
私の場合、変なプライドが働いて私はコミュ力の低い人達と一緒にされたくないと思い、仲良くしようという意識は働きにくくなっております。
(相手側からも同様に自分のことを「コミュ力の低い一緒にされたくないやつ」と思われているのでしょう。被害妄想が強すぎると思いますが…)

だからコミュ力が低いと孤立して、コミュ力を向上させる機会を得られず、コミュ力のある人たちとの間に更なるコミュ力格差が生まれます。
そうなるとコミュ力の高い人達と話すのに劣等感を感じて自信をもって話すことができません。
この状態になると脱するのは難しいです。
実際に私は十代~二十代はこの状態になっており悩んでいました。

しかし、今でもコミュ力は依然として低いものの、この状態はなんとか脱却できたと思っています。
どのようにして脱却したかを振り返ってみたいと思います。

振り返るとコミュ力以外のことで自信をつけることで、少しずつコミュ力を向上(自信をもって話す)することができたのかなと考えます。
自分の自信のある事なら比較的スムーズに自信をもって話すことができます。
自分の場合、それは仕事でした。
仕事での会話は話す目的が明確であるので相手も聞く耳を持ってくれるので話すことはできます。

コミュ力はある日突然劇的に向上できるものではないです。
私の場合、仕事の会話が苦にならないようになるまでは、それなりの年月を要しました。 自分の自信のあることを話して小さな成功体験を繰り返して少しずつコミュ力を上げていくしかないと思います。
少しくらいのコミュ力向上ではコミュ力の格差は埋まらないですが、ある程度コミュ力がつけばコミュ力格差は気にならなくなると思います。
コミュ力の高い人達はコミュ力格差なんて気にしてないでしょうし、(全員ではないと思いますが)コミュ力が低い人達を見下したりはしていないと思いたいです。

私は以前よりはコミュ力が上がりましたが、前述したとおり依然コミュ力は低いです。
ですので、劣等感を持っています。
このブログを立ち上げた理由もコミュ力の劣等感からであります。 にもかかわらず自分よりコミュ力の低い人を心の中で見下して安心してしまうことがあります。

ここまで書いてあることに気づきました。
それは、この「見下す」という歪んだ感情をなくさない限り、コミュ力格差の劣等感からは逃げられないことです。
そもそもコミュ力なんて測れないもので格差を感じることが過ちだとも思いました。

私はPodcastYoutubeで話を聞くのが好きです(Youtubeも映像より話す内容を重視します)
自分の好きな話し手の特徴を考えてみたところ次の通りです。

1.声が落ち着いていて聞いて心地よい
2.相手に不快感を与えない話し方 3.わかりやすく伝える

声質を変えることはできないですが、「相手に不快感を与えずにわかりやすく伝える」ことができるように日々精進していきたいです。

17.自意識過剰

自分のことを話すのがすごく苦手です。
自分のことを話すと赤面してしまいます。

赤面する原因を深堀してみたいと思います。
まず自分のことを話すことがなぜ苦手なのかを考えてみたいと思います。
自分の趣味や好きなことを話すと恥ずかしく思います。
好きなことや趣味が一般的なものであればそれほど恥ずかしくありません。
しかし、好きなことや趣味が一般的でないもの(マニアック・マイナー)であれば、それを話すと恥ずかしく思い、話さずに済ますことがあります。
それは「あいつ、あんなことが好きなんだ」と好奇や蔑みの目で見られると思ってしまうからです。
そして共感を得られない可能性が高いので話しても浮いてしまうだけだという諦めがあります。
浮いてしまうといじられる(≒いじめられる)シーンは同調圧力の強かった学校時代でしばしば見てきました。
その浮いてしまうとシチュエーションの当事者になりたくない不安がありました。
だから自分の本当に好きなことを話すと浮いてしまう不安感があり自分のことを話せない学校時代を過ごしました(すごく無口でした)。
私の学校時代に好きだったこと・興味があることは同級生たちとのそれとはギャップがありました。
(話したことがないだけで実はあまりギャップはなかった可能性もあります)
周りの同級生たちが好きなこと(その大半は流行りのテレビ番組)の話題についていけずに孤独感を味わいました。
(余談ですが、同級生たちもそのテレビ番組を本当に好きだったのかは不明です。孤立したくないから流行りを追いかけていただけかもしれません)

自分のことを話す場数を踏めていかなかったので、自分のことを話すことに慣れることが出来ずに未だに恥ずかしさを感じてしまいます。
学生時代の飲み会などで場数を踏むことは現在の日本社会を生き抜く上で必要なことだと思わさせられました。

こうして書くとすごくつまらないことを気にしていたのだと思わされます。
しかし浮いてしまう不安感が常に付きまとい、自分のことをうまく話せずその上手く話せない様を恥ずかしく感じるという負の連鎖に陥っており、その不安感が体に染みついており赤面するという生理現象を生み出しているのだと考えます。

ただの自意識過剰なんでしょう。
自分のことを堂々と話せば良いだけのことです。
堂々と話せばマニアックなことやマイナーなことでも他人に響かせることができるのではないかと考えます。
引かれる可能性もありますが、引かれることを恐れず堂々と話すことが大切です。
今はそういったマニアックなことやマイナーなことを堂々と話すことに対しての価値を認める風潮があると思います。
これは良い風潮だと思います。

恥ずかしそうに話すから余計恥ずかしく感じるのだと思います。
私はコミュ力は低いですが、空気を読む力はそこそこあると自負しております。
しかし、この空気を読む力が恥ずかしさを助長しているのだとも考えます。
恥ずかしい感情は「浮いてしまう不安感」や「共感されない不安感」から来ていると考えるからです。
「空気を読まない」→「細かいことには動じない」→「強くなる」ことが求められます。 流行りの言葉で言うと鈍感力というのでしょうか。

相変わらず下手な文章ですが、書くことである程度すっきりできました。

16.ゴシップ

連投です(下書き状態のまま放置していたものを公開します)

少し前に某著名人の不倫のネット記事を読みした。
SNS上のプライベートな交際記録などが赤裸々に暴露され、ネットは恐ろしいものだと再認識されました。
嫌な気分になりながらも関連の記事を検索して読み漁った私はつくづく俗人だと思い知らされました。
公言はできませんが、他人の不幸事は私にとって大変興味を持たされる出来事であります。

一昨年くらいから有名人の不倫のニュースが取り沙汰されています。
不倫は良くないことですが、あくまで当事者たちの問題であって、他人がどうこう言うこともではありません。
しかし、くだらないと思いつつもそういったニュースを見てしまいます。
見てしまうのは他人の不幸を覗き見したい卑しい人間の性のためだと思います。
他人の不幸を見ることで自分はまだ恵まれていると思い、「自分はこうならないように気をつけよう」と戒める効用もあると考えれば、こういったニュースにも意義を見出せるのかもしれません。

有名になるのはリスクが高いことだと考えされました。
ちょっとした失態を赤の他人たちにネットであれこれ書き込まれるのは私は耐えられません。
(そんなことを気にしている人はそもそもそんな地位にはつけないでしょうが...)

今では芸能人ではなくてもネットによって、ネタにされてしまう危険性があります。
読むだけくらいにしておけば良いのでしょうが、SNSで発信するから炎上に繋がるのでしょう。
他人に話したくなる(言わずにはいられない)欲求があるからだと思います。
私もこのブログを書くのは自分の心情を吐露したい欲求があるからです。

こういったゴシップ記事は永遠になくならないでしょう。
ゴシップのない世界は味気なくて不気味で怖いです。
(情報統制されている国はこうなんでしょうか)
ただゴシップに留まらない猟奇的な事件も起きています。
こういった事件はなくってほしいと思いますが、これもまた人間の性なんでしょう。